「顔に責任を持つ」― 顔立ち、顔付き、そして、表情

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Date:2012.09.03

リンカーンは、自分にある人物を取り立てるように推薦してきた人に対して、彼はダメだ。顔が悪い。「人は40歳にもなれば、自分の顔に責任を持たなければならない」と答えたという。
確かに、顔はアイデンティティの中核であり、他者を判断する際の重要な考察対象となる。モデルや俳優のように職業に直結する場合だけでなく、人事採用の面接試験などでは、顔は大切な評価要素である。今は聞かなくなった見合い写真もそうである。私達は日常生活において、無意識の内に顔からその人について多くのことを知る。

では、顔とはなんであろうか。まず「顔立ち」について考えてみる。人類には美醜についてある共通の判断基準があるかも知れない。古今東西を問わず美男美女には共通する要素があるようである。もしそのような要素を持って生まれたなら幸運であるかもしれない。とはいえ、現実を冷静に見ると、私たちは、親の子であり、親の遺伝子に基づく制約や条件の下にある。整形でもしければ顔立ちを自らの好みに変える事はできない。血統的、遺伝的に言えば、顔立ちは、長い時間をかけて形作られた先祖の歴史や家系の反映でもある。顔立ちは自分ではどうすることもできないが、自分の生存を支える誇るべき継承遺産であって、個人にとっては単なる宿命でしかない。

一方、「顔付き」は、本人の履歴書と言える。本人の知情意の実体と日々の生活を、如実に反映する。顔付きはその人の人格の窓である。人格という語は、人間のもつ動物的本性を人間としての品位による仮面で蔽い、倫理的な存在としての「人間の尊厳」を意味するプラスの言葉である。とは言え、人格は多種多様である。好奇心に満ちた顔付き、知性や自信に溢れる顔付き、優しさや慈愛を感じるものから意地悪で疑い深い顔付きまである。そして、高慢で攻撃的、あるいは謙虚で従順な顔付きもある。時には、あらゆる事から超然とした顔付きの人にお目にかかることもある。顔付きは、個性の凝縮であって、個人は自ら責任を負うべきものである。

そして、今の内心状況を表している顔が、表情である。目は心の窓という。目は最も表情を正確に表す。表情は、心情発露の原点であり、コミュニケーションの基本線である。顔立ちや顔付きと異なるダイナミックな次元の「顔」である。個別具体的な人間関係は、表情によって形成されることが一般的であろう。友好関係も敵対関係も、無関心も好奇心も、表情に出てしまう。表情は言葉を介さないコミュニケーションである。表情こそがその人の今の実体を表している。が、表情は意識的に作ることができることには、注意すべきである。

さて、リンカーンは、行政官、政治家、ブレインに推挙されたと思われる人物のどの「顔」を評価対象にしたのであろうか。「顔立ち」か「顔付き」か「表情」か、40歳にもなればというところをみれば、多分「顔付き」と思われるが、どのような顔付きを嫌ったのであろうか。そして、その理由と根拠は何であったのか。歴史に名を刻む偉大な大統領の考え方を聞いてみたいところである。

法科大学院で学ぶ私達も自分の顔付きに誇りをもつ事のできるよう、日々の研鑽を忘れず正しい学修を継続したい。最近、法科大学院棟で会う学生諸氏をみると、知性的で公平、誘惑に負けない強い信念をもち、他者や社会との繋がりを大切にする温和で勇気ある法曹の顔付きを持ち始めていると感じる。(H)

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