「以心作論」- 研究と教育

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Date:2013.02.14

「以心作論」、人生の師でもある尊敬する先生が、私のある大学勤務に当たって、贈って下さった言葉である。多くの研究者が夥しい数の華やかな論文を書く。時代や社会的関心に応える論文や研究成果、他国の動向を専門に扱うもの、個人の知的関心に基づくもの、研究者仲間との学術的交流に基づくもの、専門領域にとらわれない学際的なもの、独創的な発想に基づくものなど様々である。学術論文というためには、近代的科学の最低限の条件、すなわち「実証性」と「論理性」を満たしていることが必要不可欠である。そうすることによって、研究成果ないし科学は、新たな技術を生み出し、産業を興し発展させ、文明に変革を加えて文化をイノベーションしていく。

その研究?科学の最先端にあるのが最高学府「大学」である。多くのノーベル賞受賞者が大学に籍をおいていることは、今でも大学が最高学府としての役割を担っていることの証左である。このことからして、大学教員の第一の存在意義は、研究に献身し、研究成果を社会に向けて公表していくことである。第二の意義は、自らの研究成果を、次世代の研究学問を担う学生へ教授することである。教授は、直接的には専門家の養成を意味する。大学の責任は、ここに原点を持つ。そのため、それぞれの大学に固有の学派が形成され、文明や文化と深く関わってきた。

とはいえ、歴史的展開に即して、大学がエリート大学から、マス大学、そしてユニバーサル大学へと発展し、社会が工業社会から知価社会ないし高度情報社会へと変貌していくにつれて、大学の社会的役割も変化せざるを得ない。大学の社会的役割として、様々な分野で次世代を背負う人材育成という教育的な側面が、クローズアップされることになる。そこで、機能的観点から研究と教育とは区別されるべきであるという主張がなされることになる。極端な考え方として、研究大学と教育大学を区別すべきであるというものもある。

しかし、現代社会においても、教育と研究は一体のものではなかろうか。私の師は、教育効果を高めるためには、自らがより高い研究成果を挙げることである。そして、自らの研究の不断の深化を学生に伝えて、学生に研究学問の面白さを示し、自主的な研究活動を惹起させることが教育である、とお考えであった。全くその通りであると思う。大学の第一義に基づいてこそ、現代社会の要請である真の教育へ貢献できるのである。大学教員の自信と誇りは、研究に基づく教育になければならない。そして、大学に関わる学生?教職員は、大学人としての社会的責任を全うする気概を持つ必要がある。功利的な考え方が合理主義の王道であるという風潮に対して、大学本来の「知の探求」を行うために、すべてに「心を込めて、論を成してゆきたい」。心なき議論や論文は、何の役にも立たないと自戒しつつ、大学に身をおかさせて頂くものとして、原点を見つめることを忘れたくない。(H)

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